衒学四重奏

誰かに読んで欲しいけど 誰が読んでくれるのか分からないので 電脳の海にボトルレターを放流することにした。目指せ、検索ノイズ!

Stand by you. 『さらざんまい』を見て

前回のエントリが『ユリ熊嵐』、前々回のエントリが『輪るピングドラム』ということで、このblogもすっかり幾原作品を語る場になった。このblogを始めたときには、そのような縛りをかけるつもりもなかったので、思いもよらなかったことだ。それはさておき、さあ、『さらざんまい』について語ろう。

『さらざんまい』の魅力は、記号的な表現や奇想な世界観、視聴者を惹きつける周到なプロットに、Twitterとアニメ放送の内容を連携させた試みと、枚挙に暇がない。だが、ここでは、これまでのエントリと同様、『さらざんまい』という作品のテーマに絞って、私なりの理解を整理しておきたい。本エントリは、ネタバレを多分に含むので、主に、『さらざんまい』の視聴を終えた人に向けたものである。

つながりと、欲望。

「未来は、欲望をつなぐものだけが手にできる。」

阿久津真武(第1話)

幾原監督が公言しているように、この作品のメインテーマは「つながり」であり、サブテーマは「欲望」である。それを踏まえつつ、作品の解釈に入る前に「現在がどのような時代であるか」という点に触れておきたい。これは、私が社会反映論を展開したいからという訳ではない。幾原監督が、作品づくりにおいて、とりわけ「時代性」を重視する作家であるためだ。

「この世界はいま再び試されようとしています。
 つながっているのか。つながっていないのか。」

吾妻サラ(第10話)

現代は、つながりやすい時代と言われる。私達は、世界中に張り巡らされた巨大なネットワークを介して、誰とでもつながることができる。ゆえに、私達は、自身の周囲に広がる社会圏を飛躍的に拡大させることができる。一方で、コミュニケートする相手の数が増大することは、一人ひとりとのつながりが細く、脆くなることを意味する。ひとりの人間が有限の時間のなかで処理できる情報には限界があり、コミュニケートする相手の数が増えれば、一人あたりに割けるリソースは減るからだ。そのような状況においては、相手を理解するための情報や自分を理解してもらうための情報は断片化せざるを得ず、それゆえ、「相互に分かり合うこと」からは遠ざかっていく。その意味で、現代は、社会圏がまだ小さかった時代と較べると、つながりにくくなった時代とも言える。つまり、他者とつながれる機会を容易に得られるようになったが、他者とつながれる結果が容易には得られなくなった、ということだ。

つながりが極度に希薄化することは、自らの帰属や居場所が失われる危険性を孕んでいる。「私はいまここにいる」という実存への確信、すなわち自己承認は、他者を介した再帰的・反射的な承認として得られるからだ。つまり、私が「私はいまここにいる」ということを認めるためには、「あなたはいまここにいる」ということを認めてくれる相手を必要とする。そして、その相手に対して「あなたはいまここにいる」と私が認めることによって、私は「私はいまここにいる」ということを認められる。そのようにして、私達は、自分の存在を認めるために、相互に認めあえる他者を必要とする。すなわち、人間は、自らの存在証明のために、他者を欲望する。他者と「つながりたい」という欲望は、「私がいまここにいる」ことを確信するために必要なものであり、それを手放すことは、「いないのと同じ」に堕ちることを意味する。

「手放すな。欲望は君の命だ。」

『さらざんまい』キャッチフレーズ

しかし、つながりが多様化することは、私達が自由な選択によって自らの帰属や居場所を変化させていけることを意味している。とりわけ、子供が大人に成長していくにあたっては、つながる相手を家族からその外側へと拡げること、あるいは新たな関係性へとつなぎ替えることは、たとえそれが個々のつながりを細くするとしても、自立のための第一歩として必要なこととも言える。
この物語は、14歳の少年達が、家族のつながりに起因する受難を乗り越えて、友情のつながりを手に入れる物語である。


希望と、絶望。

この物語は、カッパとカワウソの争闘に人間の少年達が巻き込まれる形で展開されている。カワウソは、人間から搾取した「欲望」を純化させ倍化させることによって、カパゾンビという獣を作り出し、人間界を滅ぼさんとする。これに対して、カッパは、そうした人間の「欲望」を人間界から弾き出すことによって、人間界を守らんとする。カワウソは、欲望の負の側面、すなわち絶望の化身であり、カッパは、欲望の正の側面、すなわち希望の化身である。カワウソが「概念」の具象に過ぎないことを踏まえれば、カッパとカワウソの闘争は、カッパ王国第1王子の半身たる、白ケッピと黒ケッピの葛藤と言い換えてもよいだろう。
この物語の前半部分では、カワウソ陣営の新星玲央と阿久津真武の2人の大人達が「カワウソイヤァ」の歌ともにカパゾンビを生み出し、カッパ陣営の矢逆一稀、陣内燕太、久慈悠の3人の少年達が「さらざんまい」の歌とともにそれを倒すパターンが繰り返される。「つながれなかった絶望」を大人達が体現し、「つながろうとする希望」を少年達が体現するこの構図は、なんとも象徴的だ。

欲望か、愛か。 ~真武と春河の対比~

玲央と真武は、カパゾンビを生み出すバンクシーンで、「欲望か、愛か。」と問いかける。彼らにとって、あるいは、カワウソにとって、「欲望」に対置されるのは「愛」である。それでは、「欲望」と「愛」を分かつものは何であろうか。ヒントは、KURO KEPPI SYSTEMにある。第10話で真武を「欲望」と判定し、第6話で矢逆春河を「愛」と判定した、あの判定システムである。ここでは、真武と春河を対比しながら、本作における「欲望」と「愛」の差異に目を凝らしていきたい。

「傍にいられれば、それでいいと思っていた。
 お前の心を取り戻せないなら。せめて。身勝手なこの欲望を満たしたい。」

「私の唯一無二の相棒、玲央、今までもこの先もずっとお前を愛している。」

阿久津真武(第10話)

「あれからカズちゃんは笑わなくなってミサンガも捨てちゃった。
 全部僕のせいだって知ってたけど、
 カズちゃんと一緒にいたくて、笑ってほしくて。
 カズちゃんが僕のためにしてくれたこと。すっごく嬉しかった。
 だからね。僕は諦めないよ。
 カズちゃんは戻ってくる。また笑ってくれるって信じてるんだ。
 ちょっと頑固なところがあるけど、
 ゴールに向かって真っ直ぐ走っていけるカズちゃん。
 ちょっと分かりづらいけど、
 ホントはすごく優しくて、温かいこと、僕は知ってる。
 カズちゃんの笑顔が見たいって、そう願ってるのは僕だけじゃない。
 カズちゃんはまあるい"えん"の真ん中にいるんだよ。」

矢逆春河(第6話)

真武は、「玲央に愛の言葉を告げると、自らの心臓が爆発して死に至る」という秘密を抱えながらも、いつか玲央がまた以前のように笑いかけてくれることを願って、玲央と行動を共にしていた。しかし、真武が感情を殺して玲央に接するほど、玲央は「お前が偽物の真武だから、お前は俺を愛してくれないんだ」と傷ついていく。その状況についに耐えられなくなった玲央の姿を見て、真武は、自身の秘密を打ち明けることを決める。たとえ秘密を打ち明けることでこの命尽きたとしても、その刹那に自分が本物でいられることに賭けたのである。

春河は、「自分の脚の障害が、(血の繋がらない兄である)一稀の産みの母親を拒絶したことに端を発している」という秘密を抱えながらも、いつか一稀がまた以前のように笑ってくれることを願って、一稀と一緒に暮らしていた。しかし、春河がそのことを隠して一稀に接するほど、一稀は「僕が偽物の家族だから、皆は俺を責めてはくれないんだ」と傷ついてく。ある日、春河は、大好きな吾妻サラの握手会の場で、一稀が自分のために吾妻サラを演じてくれていたことを知る。そして、一稀に自身の秘密を打ち明けることを決める。たとえ秘密を打ち明けることで一稀を傷つけてしまうことがあったとしても、それによって一稀が本物の家族として戻ってくることに賭けたのである。

ここで両者に共通するのは、自ら望んで相手と一緒にいたこと、相手が以前のように笑ってくれることを願っていたこと、である。しかし、一緒に居続けるだけでは状況は変わらないし、願っているだけでは相手に伝わらない。この物語において、事態が動き出すのは、いつだって秘密が漏洩したときである。しかし、その秘密の漏洩によって、真武と春河、2人の運命は真逆の方向へと向かうこととなる。
両者の運命を分けることになった差異とは何か。それは、相手のまなざしが再び自分あるいは自分達の方へ向いてくれることを、そして、自らの語りかけに対して相手が再び呼応してくれることを、諦めていたか、諦めていなかったかである。すなわち、「欲望か、愛か。」という問いは、自分が相手に愛を伝えたその先に、相手が自分を愛してくれることを、「諦めたか、諦めていないか」という問いに還元される。

余談にはなるが、ここで、「真武の愛は偽物で、春河の愛は本物だった」とまで言い切ってしまうのは、心情的に気が引ける。もとをただせば、真武が諦めざるを得なかったのは、「玲央に愛の言葉を告げることが自らの死に直結している」というカワウソの呪いが不幸であったということに尽きるからだ。もうひとつ付け加えるならば、玲央と真武の関係が二人の間だけで閉じていたということもあるかもしれない。春河の願いを応援し、一稀の背中を押した燕太のような存在がいれば、そうした媒介者を通じて想いを伝えることが、あるいはできたかもしれないのだから。
現実においても、大人の方が、愛の言葉をスムーズに伝えることがなかなかできなかったり、人間関係がこじれたときに間を取り持ってくれるような理解者を得ることが難しかったり、といったことは多いだろう。真武を縛っていた過酷な状況は、そういった大人に嵌められた枷を暗示しているのかもしれない。

話を戻そう。この作品では、愛を伝えることそれ自体を、愛とは認めない。しかし、相互に愛し合う結果が得られたことのみを、愛と認める訳でもない。ここでは、むしろ、そうした結果を掴み取ろうとする意志の中に愛を見出し、これを積極的に評価している。すなわち、この作品では、多種多様な欲望のうち、相互に想いが通じ合った関係性に向かう欲望を、特別な1つとして「愛」と名付ける。
私には、この作品が「愛」をそのように定義したことに、優しさが込められているように感じられる。誰しも愛が成就する訳ではなく、むしろ愛に挫折することの方が多いこの残酷な世界において、それでも絶望に負けずに一縷の希望を信じるその心意気をこそ尊いと後押ししてくれる、そういった激励のこもった優しさを感じずにはいられない。

はじまりのつながり ~一稀と悠の対比~

先述の通り、この物語は、14歳の少年達が、「家族」のつながりと向き合い、それがもたらす受難を克服する物語でもある。人が生まれ落ちたときに偶然かつ不可避的につながる"原始的な"つながり、それが「家族」である。かつて、『輪るピングドラム』で、幾原監督は、「家族」について「愛も罰も分け合う関係である」というメッセージを込めた。家族という関係を語るのは存外に難しい。家族は、「かけがえのない」存在である私に愛を与えてくれる最初の他者であるが、その一方で、私に「逃れられない」境遇として罰を与える他者にもなりうる。人は家族を選んで生まれることができないため、生まれながらにして謂れのない罰を受けることもあろう。

一稀と悠は、親に起因する不遇を背負いながら、兄弟のつながりを取り戻そうとする者達である。兄弟という関係は、家族関係の中でも特に難しく、疎ましさと好ましさが絡み合った複雑な関係のように思われる。ここでは、一稀と久慈悠を対比させながら、「家族」あるいは「兄弟」というつながりの、かけがえのなさ、逃れられなさを考える。

「これは僕だけの、僕と春カッパだけのつながりなんだ。
 そのためなら僕は、いくらでも自分を偽ってやる。」

「僕は春河が嫌いだ。」

矢逆一稀(第1話, 第4話)

「俺は残されたつながりを守らなきゃいけない。だからサッカーを捨てる。」

「あんたが心底悪い奴でもどうでもいい。俺にとって兄さんは兄さんだから。」

久慈悠(第8話, 第9話)

一稀は、10歳の頃、祖父が死別したことをきっかけに、家族の中で自分だけが血の繋がりがないことを知ってしまう。そして、14歳になったある日、春河を交通事故に巻き込んでしまう。一稀は、そのことを責めてこない家族に対して、「僕が本当の家族じゃないからだ」との思いを強めていく。事故以来、一稀は、春河の脚に障害を負わせてしまったという罪の意識もあって、春河から距離を取るようになる。大好きだったサッカーを辞めて、自ら望んで孤立していくようになる。しかし、その一方で、春河とのつながりを諦めきれず、春河の好きな吾妻サラになりすますようになる。そうして春河を喜ばせることで、春河への罪を償おうとしたのだ。

悠は、10歳の頃、借金苦で両親が自殺したことにより、誓と2人で生きていくことを余儀なくされる。ある日、悠は、誓の命を狙う由利に運悪く遭遇してしまい、誓から盗んだ銃で由利を銃殺してしまう。その罪を被ってくれたのは、誓であった。この事件を機に、悠は「俺には兄さんしかいない」との思いを強めるようになる。そこには、自分のせいで道を踏み外させてしまったという罪の意識もあったのかもしれない。大好きだったサッカーを辞め、兄弟揃って孤立無援の道を歩み始める。14歳になったある日、裏稼業でヘマしたことをきっかけに、誓のもとを離れ、一稀達の学校に転校してくる。しかし、悠は誰ともつながらない。ただひたすらに、誓と再び一緒に暮らせる日を夢見て、乾燥大麻を売りさばいて金を稼ぐ。そうして誓に報いることで、誓とともに罪を背負おうとしたのだ。

「俺もお前も大して変わらない。
 欲しいものを手に入れるためには何だってやる人間だ。」

久慈悠(第2話)

ここで両者に共通するのは、彼らがそれぞれの秘密を抱えていること、法に背くことすら厭わないこと、兄弟とのつながりに執着していることである。だが、これらの、秘密、倫理観、つながりへの姿勢の3点について詳しく見ていくと、両者の間には差異が見られる。

まず、彼らが抱える秘密について。
一稀が抱える秘密は、春河に対して秘されるべき秘密である。この秘密は、一稀の春河に対するつながりを歪ませる。一方、悠が抱える秘密は、誓"以外"に対して秘されるべき秘密である。この秘密は、悠の誓に対するつながりを偏執させる。両者の差異は、つながりに対して「秘密」がもたらす功罪を指し示している。秘密は、共有する者達との間のつながりを強化するが、それと同時に、そこから外れた者達との間のつながりを弱化する。秘密が本質的に、それを共有する者達とそこから外れる者達との間に線を引くものである以上、この作用は避けられない。そして、秘された内容が重ければ重いほど、それは深刻になる。悠と誓の兄弟が、一稀に較べて、孤立無援をより深めていたのは、そういった違いに拠るところが大きい。この手の秘密は、呪縛として機能して、外部からの救済を妨げる。この呪縛が、後に2つの兄弟の運命を分けていくことになる。

次に、彼らの倫理観について。
一稀は、燕太や悠に対してそうであったように、周囲の気持ちや事情を察するようなところまで視野が行き届いておらず、どこか無神経なところがあった。それゆえ、ときに独善的な動機で、道義に反する行動に出てしまうこともあった。「このつながりを守らなきゃいけない。そのためなら、何だってする。」というセリフは、その危うい性格が端的に表れている。これは、彼がまだ14歳であることも理由のひとつかもしれないし、あるいは、本来的にそういう危うさをもった人間なのかもしれない。いずれにせよ、一稀は、単純に倫理観が未熟なキャラクターである。
一方、悠は、一稀や燕太に対してそうであったように、周囲の気持ちや事情を察する能力が誰よりも長けており、本来的には、倫理に背くようなタイプではないように思われる。実際、銃殺事件の前の悠は、粗暴な誓をどこか嫌悪していたことが見て取れる。そんな悠が、犯罪に手を染めるようになったのは、事件後、誓に同調するようになってからである。悠は、誓の反道徳的な思想を内面化したことによって、その身内の論理が社会の倫理を超えていく。「あんたが心底悪い奴でもどうでもいい。俺にとって兄さんは兄さんだから。」というセリフは、まさに身内の論理である。悠がそのようなスタンスを採ってしまうのは、彼がまだ14歳であることも理由のひとつかもしれない。しかし、それ以上に、「家族」という原始的なつながりにおいて、身内の論理が根強く、そこから逃れることが難しいといった事実を反映しているようにも感じられる。

最後に、兄弟とのつながりを取り戻そうとする姿勢について。
一稀は、偽物の吾妻サラを演じることで、春河とつながろうとした。しかし、これは、(少なくともこの段階では)相互に想いが通じ合った関係を志向するものではなく、それゆえ、上述した「愛」とは異なった何かである。一稀が求めたつながりは、春河が自分にコミュニケートできる道は閉ざしつつ、自分が春河にコミュニケートするできる道は残しておく、という手前勝手な欲望の産物だ。「僕は、僕を守るために春河を騙したんだ」という彼の叫びは、「春河を喜ばせるため」という独善の裏側に、春河を都合よく利用している自分がいることを自覚していた証左であろう。このような"利用"は、春河に対する一種の甘えであり、春河のことを「家族」だと思っていなければ難しいことのようにも思える。つながりを諦めているようで、つながりを諦めきれていない――そうした自己矛盾が、一稀の歪な姿勢によく表れている。
一方、悠は、誓とつながろうという意志を一貫して見せていた。しかし、誓の影響を受けている悠は、そもそもつながりを信じていないのではなかったか。誓の思想は、「この世界で生き残れないものは消えるしかない」という弱肉強食の思想であり、つながりによる相互承認を目指す生存戦略とは根本的に相容れない。仮に、強者であることこそが生き残る術であると確信するならば、悠のすべきことは、誓に追従することではなく、自らが強者として自立する途を模索することであったはずだ。しかし、悠は、誓を模倣したその生き方を徹底することはできなかった。つながりを信じていないようで、つながりを信じている――そうした自己矛盾が、悠の歪な姿勢によく表れている。

この物語において、彼ら兄弟の運命は同じ結末を迎えなかった。一稀は春河とのつながりを取り戻したが、悠は誓とのつながりを取り戻せなかった。しかし、これまで見てきたように、一稀と悠が試みたつながり方は、いずれもある種の歪みを内包していた。決して一稀のそれが正しかったという訳ではない。それでは、両者の運命を分けたのは何であったのだろうか。

最大の理由は、春河の一稀に対する姿勢と、誓の悠に対する姿勢の違いであろう。春河は無垢な少年であり、その純粋さも手伝って、一稀とのつながりを取り戻そうという姿勢を貫いていた。それがもたらした結末は、先に述べた通りである。一方で、誓はアウトローな青年であり、弱肉強食の世界に塗れていたがゆえに、悠の方を向ききれてはいなかった。誓もまた、悠と同じ自己矛盾を抱えていたからだ。悠に対して、「俺にもお前が必要だ。俺と一緒に来い。」と言ったのと同じ口で、「お前は戻ってもいいんだぞ。降りんなら今だ。」と言ってしまうほどに、彼は迷っていた。代替可能性の象徴とでもいうべき金の世界で外道として生きながらも、代替不可能な弟とのつながりを捨てきれない。これは誓の言わせれば「弱さ」なのだろう。しかし、それを分かっていてもなお、兄弟のつながりは、簡単には捨てられない。ここに「家族」という"原始的な"つながりの、かけがえのなさ、逃れにくさがあるのだろう。誓は、その「弱さ」によってではなく、自身のつながりに向き合えなかったという不器用さによって、命を落としてしまう。

春河がハッピーエンドを迎え、誓がデッドエンドを迎えたのは、「小学生の春河に残酷な結末を与えられない」という配慮に拠るところもあるだろう。しかし、翻って現実を見回してみると、子供よりも大人の方が、代替可能性の高い世界で生きるがゆえに、他者とつながりにくいということは往々にしてある。生きるために金を稼ぐことを強いられるこの世界では、つながりに割けるリソースは減るばかりである。そうした現状の象徴であり犠牲者が、誓として描かれていたのかもしれない。してみると、誓の不幸の発端は、両親が借金苦で自殺したこと、そのような両親のもとに生まれついたことであると言わざるを得ない。「家族」というつながりは、偶然かつ不可避的なしがらみであるため、こうした謂れなき罰に苦しめられることもある、という訳だ。
しかし、そうした観点から捉え直すと、誓が悠の未来に対して果たした役割が、実に大きいことが分かる。誓は、悠を迷いながらも自分から遠ざけたことによって、そして、果ては自らの死によって、家族という逃れがたい軛から、悠を解放した存在であると見ることもできるからだ。最終話において、何もかも失った"まっさら"な悠が「それがどうした!」と叫ぶ姿に、強烈なカタルシスを感じるのは、そういった理由によるところもあるのかもしれない。

この作品では、「家族」のポジティブな側面である「かけがえのなさ」よりも、ネガティブな側面である「逃れられなさ」の方が前面に出ていた印象が強い。それは、「家族」が、思春期を迎えた少年達の克服すべき壁として立ちはだかっていたためとも言える。一方で、春河とのつながりを取り戻した一稀が、その後の振る舞いにおいて、「絶対につながりを諦めない」、「切り離されたって、何度でもつないでやる」とまで言えるようになったのは、家族への信頼を取り戻したからこそとも言える。家族は、原始的なつながりであるがゆえに、少年がつながりの海の中を自らの意志で自由に泳ぎ回る際の拠り所=ホームとして、成長する少年の背中をそっと押す作用も持ち合わせているのだ。

つながりのおわり ~玲央と燕太の対比~

つながりは、永遠に持続するものとは限らない。先に述べたように、つながりは、他者と「あなたはいまここにいる」を交わすことによって成り立っている。それゆえ、その双方向の承認が崩れたとき、つながりは失われることとなる。
かつて、『ユリ熊嵐』において、人とクマが、異質性の壁を超えて、愛を獲得する物語が描かれた。他者が、自分とは異なる存在であり、分かり尽くすことができない存在であることは、自明である。『ユリ熊嵐』は、その自明な前提を踏まえた上で、それをどのように克服して、相互承認を手に入れるか、ということを描いた物語であった。一方、本作が焦点をあてるのは、その後の相互承認の非-永続性についてである。すなわち、一度つながれた相手に対してに、自明であったはずのその前提を見失ってしまうことがある、という問題だ。

ここでは、玲央と燕太を対比させながら、この問題について考えていこう。

「お前は俺の真武じゃない。」
「あんな人形はいらない。俺はこの皿で本物の真武を取り戻す。」

新星玲央(第10話)

「俺はそのままの一稀とつながっていたいんだ。」

陣内燕太(第10話)

玲央は、かつて、カッパ王国の臣下として、真武と共にケッピに仕えていた。しかし、カッパとカワウソの抗争の最中、真武は命を落としてしまう。真武は、カワウソによって二度目の生を得るが、その姿は以前の真武とはまるで別人のようであった。玲央は、真武の命をつなぎとめるべく、真武と共にカワウソ陣営に寝返り、行動を共にするようになる。だが、真武の変わり果てた姿を直視できない玲央は、"本物"の真武を取り戻すべく、どんな願いでも叶えることができる希望の皿を探し始める。

燕太は、かつて、サッカーチームにて、一稀とゴールデンコンビを結成していた。しかし、春河の交通事故をきっかけに、一稀はサッカーを辞めてしまう。一稀とのコンビを諦めきれない燕太は、その後も幾度となく一稀にアプローチを試みるも、なかなか上手くいかない。ときを同じくして、一稀と燕太の学校に、悠が転校してきて、ひょんなことから3人はカッパとして行動を共にするようになる。しかし、燕太は、自分よりも悠を気にかける一稀を目の当たりにして、嫉妬に駆られて、3人で集めた希望の皿を2人に内緒で隠してしまう。

両者の共通点は、言うまでもなく、かつてつながっていた相手とのつながりを取り戻そうとしていること、変わってしまった相手に翻弄されていること、であろう。しかし、変わってしまった相手との対峙の仕方において、両者は全く異なる姿勢を見せていた。

玲央は、変わってしまった真武を受け入れられず、"本物"の真武がここにいないことに苦しんでいた。玲央は、自分の記憶の中にいる、真武の"いつかの残像"に囚われており、目の前にいる真武を認めようとしなかった。目の前の真武に、その残像を重ねては、その当否に一喜一憂していただけだ。それは、いまここにいる真武に向けられたものではなかった。玲央の承認のベクトルは、真武を捉えない。玲央は、春河に対して、「涼しい顔して、今日もあいつは俺を裏切り続けてる。」と漏らす。真武が自分を愛してくれない真武であるなら、自分をそれを愛することはない、と"条件付きの"愛を携えて。
一方、燕太は、変わっていく一稀を懸命に受け入れようとし、それゆえ、一稀が自分の方を向かないことに苦しんでいた。燕太は、目の前にいる一稀がいま何を願っているかを感じ取り、それを自分の願いとして応援することを生き甲斐としてきた。しかし、燕太は、その一稀が、悠の願いを自分の願いとしていることを知り、それを一稀の願いとして受け入れることができないジレンマに陥る。けれども、燕太は、いまここにある現実の一稀から目を逸らすことはしない。妄想の世界で自分を慰めたり、嫉妬のあまり愚行に走ったりはするが、一稀を信じ続ける。他所の学校のサッカー少年たちに「裏切られたのに信じてるとか、惨めじゃね?」と言われても、「うるせえ、黙れ!」と一蹴する。一稀が自分を愛してくれない一稀であったとしても、自分が一稀を愛することは辞めない、と"無条件の"愛を発信し続ける。

この姿勢の違いは、2組のコンビの運命を大きく分かつこととなった。玲央は、真武の真実を見抜けなかった結果として真武を失うこととなった。一方、燕太は、悠を受け入れて、トリオとして一稀との新たなつながりを手に入れた。

玲央も燕太も、相手に見つけてもらうことで自分の生の実感を得たという原体験を有していたはずだ。してみると、つながることで自分が変われたのだから、相手も誰かとつながれば変わりうる存在である――ということは両者にとって当然理解されて然るべき理である。しかし、盲目的に相手を愛してしまうと、この当たり前の事実すら見失ってしまう。そうして、相互の対等な承認であったはずのものが、自分本位のものへと荒廃していき、「愛」であったはずのものが「欲望」に変質していく。玲央は、カワウソの思惑通り、この罠にハマってしまった。変わってしまった真武が玲央を裏切ったのではなく、変わりゆく真武を受け入れられなかった玲央こそが真武を裏切った。そう気づいたときには、もう手遅れだった。
もちろん、玲央は、カワウソによって陥れられた被害者であるので、同情の余地は十二分にある。「私は玲央が嫌いです」とカワウソに宣誓する真武を目の当たりにして、あの罠から逃れられたかというと、なかなか難しいだろう。しかし、真武と玲央のエピソードを、カワウソのせいで適わなかった悲劇としてだけ捉えるのは、拙速かもしれない。本編でも星の王子様が引用されていたように、これは「一番大切なものは 目には見えない」という教訓を意図した寓話でもあるからだ。
私達の社会においても、コミュニケーションにおいて相手の全てを見通すことは、そもそも原理的に不可能である。これは疑いようのない事実だ。私達にせいぜいできるのは、いまここに提示された相手の断片的な情報から、相手の人格の全体性を朧気ながらも見出す、といったことに過ぎない。しかし、私達は、その中で相互承認を結んでいかなくてはならない。そのためには、常に相手の中にある不可知な部分を許容する態度が必須となってくる。こと、相手を理解するための情報の断片化が進む現代においては、この態度の重要性がますます増しているように思える。いちばん大切なものは目には見えないからこそ、何度も相手を捉え直し、愛し直していく。これは、玲央と燕太の対比から得られる教訓の1つである。

つながりたいから さらざんまい

これまで、それぞれのキャラクターを対比させながら、そこから見えてくるものを整理してきた。一方で、この物語は、皿三枚=三匹のカッパの物語であるから、当然ながら、二者関係ではなく、三者関係であることに重要な意義がある。
三者関係は、単に、二者関係に1人の主体を追加しただけのものではなく、二者関係には還元し尽くせない「社会」としての関係性を有する。これは、社会学や心理学、コミュニケーション理論やゲーム理論あたりでもよく知られていることである。この手の理論においては、追加された1人は、二者関係の安定的なつながりを乱す者として位置付けられることが多い。というのも、三者関係においては、常に、二者と一者という対立が生じうる緊張感があるためだ。二者関係であれば「私」と「あなた」は互いにかけがえのない相手であったはずのものが、三者関係になった途端、そのかけがえのなさは失われ、誰しもその「一者」の側になりうる可能性が生じる。すなわち、つながれないことへの不安が生じることになる。
しかし、この作品では、三者関係が、極めてポジティブに描かれている。鍵となるのは、その「一者」を担う、燕太であろう。燕太は、ともすれば、一稀や悠に比べてエピソードが薄く、彼らよりも一段落ちる脇役のような印象を抱かれがちである。しかし、そうではない。
少年達の物語は、10歳の頃に悠→一稀→燕太の順でサッカーを介して密かに結ばれていたつながりが、14歳になった彼らを救う物語である。彼らがそのつながりを再び取り戻せたのは、燕太の「つながりを諦めない」という信念が、その欲望が、彼らの切れかけたつながりを介して、燕太→一稀→悠の順で転移されていったからに他ならない。カワウソによって「初めからなかったことにできる」機会を手にした一稀や悠がタナトスに支配されたときに、それを食い止めた力は、燕太のそれである。つながりに対して底抜けにポジティブな意識を持つ燕太こそが、この物語のテーマを象徴するキャラクターであり、物語に大団円をもたらした張本人と言える。おそらく、幾原監督の過去の作品でもなかなか居なかったキャラクターではなかろうか。たとえ「一者」になっても、つながりを諦めない。かけがえのない関係が保証されないこの世界において、そのことにただ悲観的になるのではなく、むしろそれを「だからこそ自分の意志でつながりを掴み取っていけるのだ」と捉え治せる諦めの悪さ。それこそが、燕太の真骨頂である。

「俺は諦めが悪いから、何一つ手放すつもりはない。」

陣内燕太(第11話)

最終話において、つながれた3人の少年は、そこに未来の自分たちの姿を見た。それは真武がいうように、あくまでも可能性の1つなのだろう。この物語は運命論を採らない。未来は不確定であるがゆえに、希望への期待と、絶望への不安が綯い交ぜになるのだ。これからも彼らは、伝わらなかったり、報われなかったり、許されなかったりするだろうし、ときには、偽ったり、裏切ったり、奪ったりもするだろう。そうした行く末の不安を抱えながらも、それでもなお、他者とつながりたいという欲望をエンジンに進むだろう。"まっさら"な未来を、自らの選択によって切り拓きながら。そういう姿をネガティブでなく、ポジティブに描ききったこの作品に、欲望賛歌としての力強さを感じる。これは若者に向けたエールなのだろう。既に大人になった私にとっては、つながりへの挫折を経験した怜央と真武が、少年達を応援することを通して再び希望を手にできたことにも、感慨深いものがあったりする。

欲望を手放すな。このど真ん中ストレートなメッセージを、素直に受け取れるだけの説得力が、この作品には確かにあった。

「忘れないで。
 喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが未来を手にできる。」

吾妻サラ(第11話)



このエントリのタイトルのStand by you.は、本作のEDの一節から。
一見すると命令文のようにも見えるこの一文。だが、Stand byの対象がyouであることから、そこにI willが隠れていることに気付かされる。 「あなた」を認めることで、「私」の存在が立ち現れる。(I will) Stand by you. これこそが愛を獲得するための第一歩であろう。総てのつながりは、そこから始まるのだから。