衒学四重奏

誰かに読んで欲しいけど 誰が読んでくれるのか分からないので 電脳の海にボトルレターを放流することにした。目指せ、検索ノイズ!

Amo: Volo ut sis. 『輪るピングドラム』を見て

昨年末に『輪るピングドラム』を1話から最終話までぶち抜きで見た。遅ればせながら、年を跨いでのblog投稿になる。

本作は、謎解きの要素が多く、各人のエピソードが回想を交えてプロットが進むので、 話半ばになっても何処に向かって進んでいるのか見えない部分があったものの、一気に見たら、その流れみたいなものが非常にクリアだった。特に、訴求したいことが物語の中に埋め込まれているというよりも、それらが全てセリフとして直接的に発話されていたので、見る者によって解釈が分かれるといったことも起こりにくいだろうな、と。もっとも、例え共通の解釈がされたとしても、それに対する賛否は諸々あるでしょうが。

私自身、アニメの細かい設定には無頓着なので*1、とりあえず細かな設定や伏線回収はさておき、ピンドラを2周目で見る人のために、テーマの骨子(と私が考えているもの)を以下に覚書きしておく。


問題意識:承認不全=愛の喪失

問題意識は、革命組織たるKIGAの会の主導者である高倉剣山が、
2001年にアジトであるアパートの一室で演説した以下のセリフに集約される(第20話)。

この世界は間違えている。
勝ったとか負けたとか 誰の方が上だとか下だとか
儲かるとか儲からないとか 認められたとか認めてくれないとか
選ばれたとか選ばれなかったとか。
奴らは人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。
この世界はそんなつまらない、きっと何者にもなれない奴らが支配している。
もうここは、氷の世界なんだ。
しかし幸いなるかな、我々の手には希望の松明が燃えている。これは聖なる炎。
明日我々は、この炎によって世界を浄化する。
今こそ取り戻そう。本当のことだけで、人が生きられる美しい世界を。
これが我々の生存戦略なのだ。

つまり、この世界は間違っており、このままでは我々は生存できない―という前提が問題意識としてあり、そこからこの物語が始まる。

この物語は1995年から16年後である2011年を舞台としている。
1995年は日本を語る現代思想においては、1つの節目として見られている。
以下、私の考えではなく、現代思想(特にポストモダン)界隈で語られるテンプレ的な現状分析の簡単な確認から。

80年代に流行したポストモダンは、人々のあらゆる価値観が相対化されることを分析し予言するものであったが、その後、90年代初頭のバブル崩壊によって、日本は経済大国としての勢いを失い、95年の地下鉄サリン事件によって宗教に対する価値観が大きく棄損された。元来、人は、資本主義や宗教といったイデオロギー的な共通基盤から生きる意味(実存)を見出していたが、そういった基盤が最早失われてしまった。普遍的な価値観の基盤が失われた後で、社会には「承認不全」が残った。

価値観が多様になり社会システムの自由が拡大する一方で、多様なモノサシが承認を妨げる。モノサシは、人々を比較可能なものとして序列化し、個人を代替可能なものとして効率化する。その結果、個人の唯一性は失われ、承認不全が起こる。モノサシというのは、「勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか」いうような尺度である。

恋愛を例に挙げれば、「私のどこが好き?」に対して「あなたは○○だから好き」と理由を確定記述できるうちは、自分の存在は恋愛市場で比較可能であり代替可能である。そのため、「自分よりも○○を満足する相手が現れたら恋人は自分のもとを去ってしまうんじゃないか…」という承認不安が常に付きまとう。

比較可能な市場においては、1番になれなければ自分の価値は確定されず、1番でない者は代替可能な「その他大勢」となる。代替可能ということは他人と替えが利くということであり、その存在理由は極めて希薄である。これが、『透明な存在』である。作中においては、こどもブロイラーに棄民され廃棄されたこどもを『透明な存在』と呼んでいるが、具体的に生命を剥奪されずとも、承認されずに無視された時点で社会的には『透明な存在』となりうる。

自由度の高い社会システムの下であらゆる価値観が相対化され、比較可能・代替可能な存在になってしまった子ども達は、承認を得る機会を失ってしまった。この作品は、そういう現状分析を前提として舞台設定されている。なお、作中においては、「承認」は「愛」と読み替えても良い。

多蕗桂樹の以下のセリフで端的に説明されている(第22話)。

君と僕は、予め失われた子どもだった。
でも、世界中のほとんどの子ども達は僕達と同じだよ。
だから、たった一度でもよかった。
誰かの愛しているっていう言葉が僕たちには必要だったんだ。

作品の中盤では、多蕗桂樹、時籠ゆり、夏芽真砂子の3人が、予め失われていた様を描いている。多蕗桂樹は母から「ピアノの才能」というモノサシで測られ、時籠ゆりは父から「美しい身体」というモノサシで測られ、夏芽真砂子は祖父から「経済的な強者」というモノサシで測られた。

多蕗とゆりは親の期待に応えることができず、愛を得ることができなかった。しかし、愛が得られるかどうかは、親の期待に応えるか否かに左右されるものではない。現に、真砂子は祖父の期待に応えて社会的な成功を得たが、愛を得ることができなかった。すなわち、才能・美貌・財力といったモノサシはそもそもが愛と無関係であり、そういったモノサシで測られた時点で、愛は失われてしまう。その意味で、多蕗、ゆり、真砂子の3人は、モノサシで測られたとき=最初から愛を喪失していた。

以上が、物語の前提部分となる問題系である。

眞悧の生存戦略:利己的な自己の拡大

それでは、そのような予め失われた子らは、この世界でどのように生存していけばいいか?
方向性としては2つある。1つは、相互承認によって承認不全を解消する方向である。もう1つは、世界を破壊することで承認不全の問題もろとも消去する方向である。前者が桃果の考え方であり、後者が眞悧の考え方である。
まず、分かりにくい眞悧の考え方から説明し、次項で桃果の考え方を説明する。


上述のように、人々が承認を得る機会を失ってしまったのは、人々が社会において比較可能・代替可能な存在になってしまったことに起因する。そうであるならば、私という存在を比較可能・代替可能なものとしてみなす世界を破壊すればよい―と眞悧は考えた。それはつまり、私への評価という形で向けられる他者のまなざしを、他者もろとも消去してしまえばよい、という生存戦略である。

僕は何者にもなれなかった。
いや、僕はついに力を手に入れたんだ。
僕を必要としなかった世界に復讐するんだ。やっと僕は透明じゃなくなるんだ。

他者のまなざしは、私の存在意義を脅かすだけでなく、私の在り方に対して外側から『制限』を加える。そのような『制限』は、私の自由を拘束し、本来のオリジナリティを減損させ、私の実存を希薄にする。

眞悧のセリフにおいて、『制限』は、『箱』というイメージをもって語られる(第23話)。『箱』は、私と他者とを別個の存在として区別ためには必要不可欠なものであるが、その反面、私の実存を脅かす。

人間っていうのは不自由な生き物だね。
なぜって?だって自分という箱から一生出られないからね。
その箱はね、僕達を守ってくれるわけじゃない。
僕達から大切なものを奪っていくんだ。
例え隣に誰かいても、壁を越えて繋がることもできない。
僕らはみんなひとりぼっちなのさ。
その箱の中で僕達が何かを得ることは絶対にないだろう。
出口なんてどこにもないんだ。誰も救えやしない。
だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を。

世界はいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて自分の箱に入るんだ。
ずっと一生そのままに。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。
自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか、誰を好きだったのか。
だからさ僕は箱から出るんだ。僕は選ばれし者。
だからさ僕はこの世界を壊すんだ。

我々は、各々が自分という箱の中にいる。この箱は、自分と他者の間を仕切っている壁でできており、自分をその中に閉じ込める。箱によって個人が抑圧され、本来的な個性が剥奪される。
箱から出るにはどうしたらいいか?壁は自分と他者を別個のものとして認識するために必須であるがゆえに、壁を越えて行って他者の箱に入ってしまうことはできないし、壁を壊して自分と他者を大きな1つの箱に入れてしまうことはできない。自分と他者との区別がある限り、自分と隣人との間の壁は本質的に壊すことができない。できるとすれば、他者もろとも壁を消し去るしかない。だから、壁を、他人を、世界を壊すしかない。

世界を壊した結果、「私は選ばれし者だ」という仮初の自覚が得られるだろう。しかし、これは承認不全を解消するものではない。私に承認を与えうる役割であったはずの他者が消し去られた後の世界は、「選ぶ者」が不在な世界であるからだ。

では、この眞悧の生存戦略は、虚無感しか残らない不毛なものなのか?というと、そうでもない。他者を「選ばれなかった者」として排除することで、少なくとも利益を享受することができる。これは、眞悧に共感した冠葉が述べている(第23話)。

今の世界は、絶対に俺たちに実りの果実を与えたりしない。
だから、俺たちは世界を変える。

世界を壊すことによって他者から『実りの果実』を収奪できる。この『実りの果実』というワードは、夏芽家の呪いである「この世界は強欲な者だけにしか実りの果実を与えようとしない」に由来するものであり、例えば『富』と読み替えても良いし、『利益』と読み替えてもよい。『実りの果実』はゼロサムゲームの中で争奪されるものである。

まとめよう。眞悧の生存戦略は、他者を壊すことで世界を壊し、本来の利己的な自己を取り戻そうとするものである。そして、新しい世界においては、個人が利己的に振舞うことが許される。

桃果の生存戦略:相互承認の連鎖

他方、桃果は、相互の承認を取り戻すことによって生存することを目指した。
人々が承認を得る機会を失ってしまったので、お互いに承認し合うことで承認不全を解消しよう、というシンプルかつ重要な生存戦略である。

桃果の思想は、第24話のラストシーンの冠葉・晶馬・陽毬の選択として描かれている。

楽しかった、ありがとう。返すよ。あの日、兄貴が僕に分け与えたもの。
僕にくれた命。僕達の愛も、僕達の罰もみんな分け合うんだ。
これが、僕達の始まり――運命だったんだ。

箱に閉じ込められた冠葉が、隣の箱に閉じ込められた晶馬にりんごを分け与える印象的なシーン。これは何を意味するだろうか?

晶馬が胸から取り出した炎の玉を陽毬に渡したラストシーンからも分かるとおり、りんごは命の象徴である。したがって、りんごの半分を他者に分け与える行為は、自分の命の一部を他者に差し出す行為に他ならない。
この行為は、第1に、自らの生の一部を他者に与えるものである。自らの生を他者に捧げるこの行為は、作中のような自己犠牲による死に限らず、自らの生を賭して他者と関わることのメタファーである。第2に、この行為は、自分が現在生きている証を他者に預ける行為である。これは、自分の存在意義を他者に委ねる行為によって、私が相手から承認されることのメタファーである。

したがって、りんごを分け与えるシーンは、自らの生を賭して相手と関わることによって愛を獲得することを象徴するシーンである。

そして、このような「愛のために自らの生を賭す決断をすること」は、作中で「愛による死を選択する」と呼ばれる。りんごが「愛による死を自ら選択した者へのごほうび」と言われるのはこのためである。そこで手にするごほうび=愛は、モノサシに基づく評価ではなく、自分が生きていることそのものへの肯定であるからこそ、代替不可能である。

さて、このような承認=愛は、何も新しい発想ではなく、古くは家族や共同体の中にあったはずである。とするならば、社会の環境が変わったことによって一度失われた愛を、何の努力も労苦もなく取り戻すことはできるだろうか?本作では、愛を分け合うだけではなく、罰をも分け合うことが運命であるというメッセージを残している。

ところで、ここでいう『罰』とは何だろうか?「生きるってことは罰なんだ」というセリフからは、『罰』が具体的に何を指し示すのか捉えづらい。そこで、眞悧の言葉を借りるとすれば、『罰』とは他者によって自由が『制限』されながら生きることだと考えれられる。

第24話での陽毬が『罰』を自覚するシーン。

私ね、高倉家に居る間、ずっと小さな罰ばかり受けていたよ。
晶ちゃんは口うるさいお母さんみたい。
脱いだ靴は揃えろとか、汚い言葉は使うなとか、夕飯は家族そろってとか。
冠ちゃんは食事の後すぐ寝転がるよね。牛になるよって言っても聞かないし。
あと、鼻をかんだティッシュを放りっぱなしにするのは止めて。
そんなんだから、女にだらしないバッチイ冠葉菌って言われちゃうんだよ。
でも、それでも私達は一緒に居たよ。
どんな小さくてつまらない罰もね、大切な思い出。
だって私が生きているって感じられたのは、冠ちゃんと晶ちゃんが居たから。
高倉陽毬で居られたから。私、忘れたく無いよ。失いたく無いよ。

家族や共同体の中で守られるべきルールは、1人で自由気ままに利己的に振舞うことに制限を加えるものである。眞悧は『罰』を『箱』というネガティブなものに捉え、『罰』を避けるために『愛』の供給源たる他者もろとも消し去ろうとした。
一方、陽毬・晶馬は『罰』を『大切な思い出』というポジティブなものに捉え、『罰』も『愛』も共に受け入れようとした。愛を分け合った相手と共に生きる上で『罰』を引き受けなければならないが、そもそも生きることが罰なのだから、愛も罰も引き受けてしまおう。それが、彼らの選択であった。

すなわち、ピングドラムとは、愛も罰も含めて互いの生を取り交わす行為そのものであり、愛も罰も内包する『運命の果実』を一緒に食べる行為である。きっと何者にもなれない者達が、他者にとっての何者かになることによって、自らの生に意味を見出す。ピングドラムを手に入れることで、真に生きることができる。それがプリンセス・オブ・クリスタルこと桃果の描いた生存戦略である。
そして、りんごが、冠葉から晶馬へ、晶馬から陽毬へ、陽毬から再び冠葉へと受け渡されたように、その連鎖が輪を為すとき、ピングドラムは輪るのだ。


感想

共同体を失った個人が共同体へと回帰していく―という物語は、『クラナド』や『とらドラ』のように、最近のアニメのトレンドの1つであるように思う。そういった作品は、家族的なものを何かしら損失している登場人物が、「絶対的なホームベースとしての家族がやっぱり大事だよね」と自覚するような、保守反動的なラストに落ち着くことが多い。

そういった作品では、いわゆる「家族っていいよね」といった先祖返りのような展開になることが多いが、価値観が既に多様化・相対化してしまった現在において、再びどのように共同体を取り戻すことができるのか?という点についてはあまり触れられていない。そこでは、家族的な愛が理想郷のごとく描かれるものの、現実問題としてそれをどのようにして獲得するのかについての描写は、不十分であったように思う。まぁ、アニメ作品であるので、一種のファンタジーとして良作であれば、必ずしも現実との接点を描かずともよいのだが。

私は、『輪るピングドラム』は、上記のような問題に真っ向から向かい合った作品だと考える。「絶対的なものを失った中で、どのようにして共同体を形成するか?」を真剣に考えるとき、そこには必ず自由と承認の問題がある。この問題は今でも議論が盛んなトピックではあるし、私自身、それに対するコレといった解を持ち合わせている訳でもない。

1つの考え方として、この自由と承認の問題について、いち早く取り組んだヘーゲルの考え方が参考になるように思う。ヘーゲルは、自由を生来的な自然権としてではなく、他者との相互承認によって生み出されるものであると考えた。自由が相互承認によって獲得されるというこの考えに立てば、本作における『罰』に対して「本来は自由であったものが損なわれる」といったマイナスイメージを抱くことは少なくなるのではなかろうか。そこでは、罰すらも、もっとポジティブに受け入れらるかも知れない。冠葉・晶馬・陽毬のように。


タイトルは、昔読んだアーレントの本に書かれていた言葉から引用。

Amo: Volo ut sis.
愛してる。それは、あなたが存在することを私が望むということ。