衒学四重奏

誰かに読んで欲しいけど 誰が読んでくれるのか分からないので 電脳の海にボトルレターを放流することにした。目指せ、検索ノイズ!

異質な他者と生きること 『ユリ熊嵐』を見て

前回のblog投稿から早いもので3年が経った。久々のblog投稿で何について書くかというと、先日最終話を迎えた『ユリ熊嵐』についてである。

本作は、幾原監督の過去の作品と同様、抽象度の高いワーディングや、シュールなアニメ表現、回想シーンを多用したプロットにより、独特の分かりにくさがある。それらは、幾原監督の作家性であり、魅力の1つだ。ところが、最終話まで観てしまえば、幾原監督のメッセージは一貫して明解だと思えた。おそらく、1巡目(特に序盤)には抽象度の高い表現に翻弄された人であっても、作品のテーマを理解した後に見直せば、理解は幾分容易になるだろう。ただ、周りを見回すと、最終話を見終えてもなお、「最後までよく分からなかった」という感想も一定数見かける。そこで、何の足しになるかは分からないが、私が理解している範囲内で、本作のテーマを書き残しておきたい*1


普遍的な愛を喪失した世界で「本物のスキ」を探す物語

ユリ熊嵐』という物語を「物」と「語り」に分けるならば、本作を難解にしているのは、主として後者である。そのため、以下では、時系列に沿って整理していく。

物語は、小惑星クマリアが爆発し、その破片が隕石となって地球に降り注ぐことによって始まる。これが何を意味するかについては、クマリアの破片の一部であるライフ・セクシーによって語られる(第7, 10, 11話)。

クマリア様は愛である。
生きとし生けるもの全てを承認し、スキを与える世界の母である。
クマリア様は、既に失われました。流星になって世界中に散らばったのです。
スキには様々な形がある。
だからこそ、クマリア様は断絶を越えようとする全てのものに、
お尋ねになるのかもしれない。
「あなたのスキは本物?」

キリスト教の言葉を借りるならば、「神は愛なり」である。神の愛は、無償で普遍的なものであり、全ての者の存在意義の拠り所となるものである。しかし、そのような愛は失われてしまった。神は死んだのだ。今や、神の与える唯一無二の愛はなく、世界には、数多の世俗的な「スキ」が氾濫している。本作では、「スキ」というワードが、視聴者に対して過剰に供給される。そうして、バズワードと化した「スキ」の中で、繰り返し「あなたのスキは本物?」と問いかける。「本物のスキ」とは何か?その問いが、物語を駆動する。

無償で普遍的な愛が存在しない世界では、条件付きでしか「スキ」が得られない。かつての神の痕跡は、他者との関係の中にしかない。これは、『輪るピングドラム』から継承されている設定であり、現実社会の写像でもある。そう考えると、「スキ」は、おそらく承認と言い換えて差し支えないだろう。作中では、「スキ」が、「好きである」といった動詞の形で登場せず、名詞形でしか登場しない。これは、幾原監督が「スキ」を、心の内に湧き上がる感情というよりも、二者間の贈与や交換の対象として見なしているからかもしれない。

輪るピングドラム』では、愛を失った子供達による家族の再生が描かれていた。しかし、近親の者ではない他者から承認を得ることは、家族にもまして困難である。さて、「本物のスキ」を得るにはどうしたらよいのだろうか?

  参考:Amo: Volo ut sis. 『輪るピングドラム』を見て - 衒学四重奏

あなたは箱を諦めますか? それとも、スキを諦めますか?

他者からスキ=承認を得るために、まずは他者に出会わなければならない。しかし、ここに1つの葛藤がある。この葛藤は、主人公の母である椿輝澪愛と、その親友である箱仲ユリーカの物語として描かれている(第8話)。

世界から穢れのない大切なものを守るために、
箱は私を特別な存在で居させてくれる。
特別でないものは……要らないものは、誰にも見つけて……

自らを「箱」の中にしまえば、外の世界に接触しなければ、特別でいられる。ユリーカは、そう教えられて育った。「箱」は、穢れた外の世界から無垢な自分を守るための、いわば無菌室である。その中では、無垢の永遠性が保障される。箱の中では、「私は特別だ」と信じられる。

外の世界は、競争の世界である。そこでは、常に他者の視線に曝され、比較され、優劣が裁定される。外の世界に1歩踏み出したその瞬間から、自分の価値の低さが露呈する脅威に曝される。もし私の価値が毀損されれば、「私は特別だ」と信じられなくなってしまう。ユリーカは、自分の価値を脅かす外の世界を「穢れ」として恐れ、自らを箱の中に押し込めて、閉じ篭っていた。

だが、「信じること」と「疑わないこと」はイコールではない。疑うことは信じることに先立つからだ。その意味で、「私は特別だ」と信じようとするユリーカの中には、「私は特別ではないのではないか?」という疑念は既に萌芽していた。箱の中で得られる安寧は、自己欺瞞でしかなかった。

そんなユリーカに対して、箱の外に出ることを促したのは、澪愛だった。澪愛は、箱の中に居続けることは、「無いのと同じ」だと訴える。

箱を開けて、見て、触れてみなければ、大切なものもきっと無いのと同じ。
箱を開けて、あなたの大切なものを私に見せて。

自己というものは、本質的に、他者との差異の中で見出され、他者との関係によって育まれるものである。だから、箱の中に閉じ篭っていては、自分の存在はもちろん、「私は特別だ」という信念すら、世界にとっては無いのと同じなのだ。「私は特別だ」という確証は、「あなたは特別だ」という他者からの承認があってこそ、初めて得られる。だから、まずは外へ出よう、と澪愛は諭す。

箱の外に出なければ他者から承認を得られない。しかし、箱の外に出れば他者によって傷つけられるかもしれない。これは一種の葛藤である。いわば、「服屋に行く服がない」状態である。服さえあれば自信を持って服屋へ出かけられるのに、その服は服屋に行かねば手に入らない。

他者は、自分の存在を承認してくれる可能性のある者であり、自分の存在を毀損する可能性のある者である。この二重性に対する好意と嫌悪は、モノローグで度々繰り返される。

私達は、最初からあなた達が大好きで、あなた達が大嫌いだった。
だから、本当の友達になりたかった。あの壁を越えて。

透明な嵐:他者との同質化による自己の希薄化

本作では、人間の世界と熊の世界とが「断絶の壁」によって分断されている。人間の世界は、専ら、嵐が丘学園という女子校が舞台となっている。そこでは、「排除の儀」という粛清が繰り返され、同調圧力の空気が全てを支配している。生徒達はそれを「透明な嵐」と呼ぶ(第3話)。

私達は透明な存在であらねばなりません。それでは排除の儀を始めましょう。
友達は何より大切ですよね? 今この教室にいる友達、それが私達です。
その私達の気持ちを否定する人って最低ですよね。
私達から浮いている人って駄目ですよね。
私達の色に染まらない人は迷惑ですよね。
そういう空気を読めない人は悪です。

透明な嵐は、異質なものを徹底的に排除し、他者との同質化を突き詰める。言わば、この学園は、競争を拒絶する者達を囲う箱庭であり、1つの大きな「箱」である。この箱の中で、透明な嵐は、異端は悪であるというイデオロギーを維持すべく、異端者を排除し続ける。そうしなければ、自分達の正当性が瓦解してしまうからだ。しかし、皮肉なことに、そうして画一化された集団の中では、各人の代替可能性が最大化される。例えば、透明な嵐の主導者が次々に熊に捕食されようと、翌日になれば別の誰かが取って代わり、体制は何も変わらない。集団に隷属する個は、「無いのと同じ」なのだ。他者の他者性を拒絶し続ける限り、各人の存在は雲散霧消し、透明になる。

百合園蜜子:自己の強化による他者の餌食化

人間達は、断絶の壁を越えてやってくる熊を恐れる。熊は、人間を捕食する存在、すなわち、人間の存在を脅かす他者である。作中で描かれているように、熊の世界には、熊の世界なりの家族や協会のような共同体があるようだ。その意味では、異常性が戯画的に描かれる人間の世界よりも、随分と人間らしいようにも思える。

人間の世界を象徴する1つの極が「透明な嵐」であるならば、熊の世界を象徴する1つの極は「百合園蜜子」である*2。蜜子は、人間に化けて嵐が丘学園に侵入した熊であり、自らの欲望のままに女生徒達を次々に捕食する。人間を食べるか、人間に狩られるか、という闘争の中で生きてきた蜜子は、次のように述べる(第9話)。

邪魔ものは排除する。
私達は欲しいものに正直であるべきだわ。
この世界で本当に信じられるのは友達なんかじゃない。
それは、私という欲望だけ。
スキは凶暴な感情。スキは相手を支配すること。
ひとつになりたいと相手を飲み込んでしまうこと。

弱肉強食の世界を生き抜いてきた蜜子は、自覚している。この世界で生存するには、人を傷つけずにはいられないということを。しかし、そこに罪の意識を抱いてはいない。むしろ、倒錯的に、その罪を甘美な快楽として肯定する。蜜子にとって、他者は生を収奪し合う敵であり、生を与える相手ではない。
しかし、欲望の奴隷となり、他者を獲物として捉える者は、孤独に生きねばならない。そして、いつかは自分も狩られる側になり、死を迎える。

人間の世界と熊の世界の間で

ユリ熊嵐』は、人間の少女である椿輝紅羽と、熊の少女である百合城銀子が、「本物のスキ」を見つける物語である。本作では、繰り返し二択の問いが繰り返される。

あなたは透明になりますか?それとも、人間食べますか?

結論を先に言うと、「本物のスキ」は、この選択肢のどちらを選んでも辿りつくことができない。前者は、透明な嵐と同じく、他者を拒絶する道に通じている。後者は、百合園蜜子と同じく、他者を飲み込む道に通じている。この問いは、元より誤った二分法だったのだ。そして、「本物のスキ」は、その2つの選択肢の間、すなわち、透明な嵐と百合園蜜子の間にこそあった。

紅羽は、透明な嵐と決別し、熊を拒絶することをやめることにより、「本物のスキ」に到った。すなわち、紅羽にとって、同調圧力に屈せず、異質な他者を受け入れる覚悟をすることこそが、「本物のスキ」を手に入れるための要件であった。他方、銀子は、百合園蜜子と決別し、紅羽を飲み込みたい欲望を制したときに、「本物のスキ」に到った。すなわち、銀子にとって、欲望に負けず、他者に与えることを望むことこそが、「本物のスキ」を手に入れるための要件であった。そうして、2人は、透明でもなく、孤立でもない、自立した2つの個となることによって、互いに「本物のスキ」を与え合い、共に在ることが承認された。

やっと見つけた。本物のスキ。
本物のスキは嵐に負けて折れたりしない。
本物のスキは私をひとりぼっちにしない。

紅羽は、かつて、銀子に同化を求めてしまうという過ちを犯した。銀子は、紅羽を食べたいという欲望に身を委ねるという過ちを犯した。同化を求めること、相手を支配すること、それらはいずれも「偽者のスキ」であった。すなわち、「約束のキス」は、「偽者のスキ」を「本物のスキ」に反転させるための試練だったのだ。

したがって、これは、紅羽と銀子が、元からあったものをただ取り戻すだけの復縁の物語ではない。偶発的に出会った相手と交わした仮初のスキが、他者を介した自己変革を経て、本物のスキへと成熟する物語であったのだ。そして、彼女達を自己変革へと導いたのは、その仮初のスキであったと言えよう。

小さな革命の連鎖がもたらす希望

2人が結ばれた後、世界は何事も無かったかのように、元の日常に戻った。透明な嵐はこれからも排除の儀を繰り返すだろうし、断絶の壁も在り続けるだろう。2人が結ばれたからといって2つの世界が融和することはなかったし、クマリア様の復活によって全ての人や熊が幸福を享受する結末は迎えなかった*3。この結末に対して、残念がる声もしばしば見かける。しかし、私は、この結末に1つの救いを見出す。

仮に、2人の約束のキスで、世界が大きく変革されたとしよう。この場合、彼女達は選ばれし救世主であり、それ以外の者達は選ばれなかったモブということになる。そのモブたちの中に、視聴者も含まれるだろう。モブは、世界を変革したいと願っても、じっと救世主の到来を待つしかない。ひとたび救世主たる彼女達が現れれば、それを憧憬の念を抱いて眺めることしかできない。そこに漂うのは諦観である。

一方、本作の結末は、「他者との関わりの中で自己変革を起こせば、自分と他者との間に小さな革命が起こる」ということを提示する。選ばれるか、選ばれないか、ではない。選ぶか、選ばないか、である。もちろん、直ちに決断を迫られることもないし、選択にはリスクが伴うのだから、気が済むまで引き篭もることだってできる。ただし、他者からの承認が得たければ、勇気を出して異質な者達の中に飛び込む必要がある。そういうメッセージが込められているように思える。誰しも当たり前のことだと分かっていながら、実際に実践しようとなると、なかなかに難しいことだ。

確かに世界は革命されなかった。しかし、この小さな革命は当事者間の自己満足に留まらない。そうした変化は、他者を刺激し、他者に伝染しうる。物語の終盤に、透明な嵐の構成員=モブの1人として、亜依撃子という少女が登場する。「LOVE BULLET」をもじったキャラクターである。彼女は、紅羽と銀子の約束のキスを目撃して、流れ弾に撃たれるが如く、熊への愛着に目覚める。きっかけは、いつだって偶発的である。それを「本物のスキ」に変えられるかどうかは、今後彼女が嵐の中に飛び込むかどうかに懸っているのだ。そうした連鎖を経て、2つの世界は大きく変わっていくのかもしれない。

おそらく、世界が大きく変わっても、2つの世界が1つになることはならないだろう。他者を尊重して皆が自由に選択するとき、世界は1つに収斂するのではなく、より多様になっていく。そうして、様々な世界が互いに重なりあって、並存していく。異なる世界の狭間で、たびたび嵐を巻き起こしながら。


あの世界とこの世界
重なりあったところに
たったひとつのものがあるんだ
世界は ひとつじゃない
ああ そのまま 重なりあって
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう      (星野源『ばらばら』より)

*1:Twitterなどで、「ユリ熊嵐を語るブロガーは腹を切って死ぬべきである。」という透明な嵐が吹き荒れていることも承知の上で、である。

*2:ここでは、実際の蜜子自身と、百合城銀子が見た幻影としての蜜子とを区別せずに述べる。

*3:その意味で、この作品はいわゆるセカイ系ではない。